震災の時たまたま10分早く起きたおかげで自分は助かったんだけど、いつも通りに寝ていた旦那さんは死んでしまったという人。顔のほんの数十cm右を弾丸が通り、後ろにいた味方の兵士がその弾丸に当たって死んでしまったという人。そういう人があの時自分がどうこうしていればと責任、というよりも罪悪感を感じてしまうという話。久しぶりにその下りを読んで、近頃はわりと本気で多世界的にものを考えてるなあと改めて思う。
ハヤテがマラソン大会で負けて執事をクビになると決まった時に、大丈夫ですよ、平行世界のどれかには勝っている僕もいるはずですから、って答えたけど、そんなカンジ。や、仮にそういったすんでのところで死にかけたりしたとしても、確かに他の世界の自分は死んでるかもしれないけどこの世界の自分はこうして生きてるんだから、この世界は自分が生きてると確定した世界なんだ、的な。拾ったボールを審判に渡そうと立ち上がった時にちょうど自分のチームの4番が素振りしてて頭の数cm上を通ったあのときは、まあ死んでたわな。どっかの世界の自分は、的な。うーん、なんかニュアンスが伝わらない。いまいち。
60%の確率でリターンを得られる投資をして結果は失敗だった。この投資は間違いだったか?いや確率が高い方に張ったのだからその判断は間違いではない。って話があるけど、そんなカンジでもある。そこから分岐する100の世界のうち60の世界では成功してたわけだ。じゃ、失敗した40の世界は不運じゃん。意味ないじゃん。同じ判断してんのにさ、ってカンジかもしれないけど、残りの40の世界でも、また60%の確率に張っていけば16、6.4、2.56、1.02、0.4って具合になっていく。上の話には、もしあの対局で銀を引いていたらホームレスになってたかもしれない、という棋士の言葉もでてくるけど、この考え方で言うならば、その可能性は低い。60%という優位性のある投資を続ければ損する世界を探す方が難しいように、もし一手を、あるいは一局を仕損じたところで、真に優位性を有しているならばあまり変わらないだろう。
もしそれが年齢的に最後の奨励会試験だとしたら?って疑問もありえるだろうけど、そうだとしても、あまり変わりはないんじゃないかな。よく高校最後の大会でエラーして負けた、みたいな話があるけど、それ以前に得点を取っていれば、あるいは失点が少なければ、エラーをしたところで勝っていたのだから、エラーしたその人だけの責任というよりは、それまでに差をつけられなかった味方全員の責任だと思うんだけど、それと同じように、真に優位性を持っていたのならば最後の奨励会試験の前に合格しているだろうし、もし運良くそこで合格したとしてもその先やっていけるかどうかはわからない。もしそれが名人戦だったら?みたいな仮定だともっとわかりやすく、そこで仮に負けようが勝とうが、名人のタイトルを取る人はいずれ取るし、取れない人はずっと取れないんじゃないかな。60%の投資が、短いスパンで見れば80%から40%までばらつきがあったとしても、数が増えるに従って60%に収斂していくように、結局のところ、自らの実力に収斂していく。
と、まあ、近頃の認識としては、そんなカンジ。