結局のところ、物事に意味なんてないんだから、それにリソース割いても仕様がない、それこそ仕様という、天命であり運命であるってことにしておいて、なぜこのようなことになったのか、なんてベクトルに考える力をストップさせて、それでこれからどうするのか、を考える方に向けさせよか、てなことなんじゃないかなとか思う。
末期ガンにせよ、交通事故にせよ、愛する人間の不遇の死にせよ、そこに何の意味なんかありはしないように、顔面が癩病で崩れたことも、また、それは天命である、っつー。どうして自分がこんな目に!と憤り恨み呪い腐るのではなく、これもまた天命であるのだから仕方がない、さて、それでわたしは、これからどうやって過ごしていこうかな、って方向に考えを向けさせるための。
そう考えてみると、自分の意思でどうにかできる権内のことと、自分の意思ではどうにもできない権外のことを、きちんと区別した上で、権外のことについて悩むのをやめたら?阿呆らしい、っていう足の悪いおじさんの考えと同じだな、ってことがわかる。その考えは実際に意思の力だけでそれを実現するよりも、天命・運命という仮定を導入することで、いくらか容易になるんじゃないかな。


以前、とある将棋指しが貸し方借り方って概念を導入してた。真面目に頑張りなさい、ってーのは、まー正しいっちゃ正しいんだろうけど、だからといってそれを実現するのはなかなか難しい。でも貸し方借り方って概念を導入すると、たとえば月給10万の仕事だったら10万にしかならん阿呆らしいってことでさぼっちゃいがちだけど、10万の仕事をおいこれ20万くらいの価値があるんじゃないかなってくらいに一生懸命真面目に仕事をしたら、自分は10万円分、世間に貸しがあるもんだと考えるらしい。逆に5万円分の仕事しかしなかったら、5万円分、世間に借りがあるとする、借り方。
そう考えると貸しをどんどん作ることで、自分は世間にこれだけの貸しがあるんだからと胸を張って生きられる。でも、逆に借り方になってしまうと、どうしても卑屈になってしまうからやめなさい。それに世間に貸しを作るような生き方をすれば、世間の方が、あなたを重宝して、暮らしに困ることはないでしょうし、っつー。こうやって考えるのならば、ただただ漫然と真面目に頑張りなさいって言葉に従うよりも、実践として、真面目にやってくことが容易になるんじゃないかなっと、そのとき本を読んでて思った。


それと同じように、人の思惑じゃ推し量ることのできない権外の物事は、いったんカッコに入れて閉じちゃいましょうと。カッコの名前は天命。や、運命でもいいんだけど運命だとべつのニュアンスが強い気がする。運命は変えることができないっていうのか!なんてーことじゃなく、すでに決定された事項の理由探しなんていう阿呆なことはやめて、どうして病気にかからなくちゃ事故に遭わなくちゃ死ななければならないのっつー、カッコに入れて閉じちゃって、これからどうするかを考えましょうと。それこそ、これからの運命を変えてくために。
そういった意味で、権内権外を実践するために、天命や運命って考え方は、なかなかいいんじゃないのかな、とか思う。命なるかな。