「キレたとかムカついたなんて理由にはならない」

というポスターを見て、マジで!?、と思わず二度見をしてしまった。じゃあどんな理由ならいいのだろうかと考える。
世界の運命を左右するスイッチを、世界の運命を左右しようとする悪党と戦ってる最中、からんころんからんと転がったところを拾う駅員。それを貸してくれ!と頼むも、や、これ落とし物ですから、まず届けを出してもらわないとお役所対応な駅員。クレバーな悪党はもう駅員室へと駆け込み落とし物をしたという届け出に書き込んでいる。このままじゃスイッチは悪党の手に渡り世界は破滅に向かってしまう。致し方なし。ガシッ!ボカッ!世界は救われた。
こういうことならしょうがないねとなるのだろうか。ならないだろうし、してはいけないだろう。キレたとかムカついた以外の何かなら理由として認められるわけではなく、どんな理由であろうと関係ない。その行為自体が禁止されているのだから。
もし仮に駅員が届け出を優先して悪役にスイッチを渡し、世界が滅んだとする。その場合、いったい誰がわるいのだろうか。駅員の責はいかほどのものだろうか。ない。全くもってない。スイッチを押して世界を滅ぼしたのはあくまでも悪役であるのだから。だから正確に言うならば、駅員がスイッチを渡し、悪役がスイッチを押して、世界が滅んだ。駅員に責はない。
もし駅員に責があるとするならば、一方的な片思いをされて、その告白を断って、その相手が自殺した際にも責任を負わねばならない。あなたが告白を断るのならば自殺しますよという暴力に屈しなければならない。自殺をするのはあくまでもその自殺した人間に決定権がある。ま、この理屈だと、いじめによる自殺でも同じことを言うことになる。えー、自殺したのはあくまでそいつじゃないんですかー、と。そして諾と答える。まあ駅員とちがい、いじめはその行為自体が問題であるのだから処罰の対象となるけど、決定権自体に対する考え方は変わらない。最後の最後の一番大事な決定権まで他人に握られてるとは考えない。