神様の道を歩むってのは

信仰はさておき、人生を生きていく上で道を踏み外さないための知恵っつーか、すでに安全が確保されている登山ルート的な意味合いもあるんだろうなーっと、ここ最近の「このSを見よ」を読んでて思う。
あこがれの先輩の彼女がフェラしてくれたことを、あれは金目当てでやったんだよという噂を聞いたからっつって、彼女が欲しがってるバッグの値段、12万円以上の現金をちらつかせてセックスするってのはさ、しなくてもいい苦労っつーか、わざわざ見る必要のない現実っつーか、【グロ動画】っていうリンクをわざわざ踏むことないっつーか、なんだかなーっていう気がしてさ。
もちろん、その後の展開はとんだバカ野郎ではあるんだけれども*1、そこに至らないためにどうしたらいいのかって考えたら、やっぱ、そういった道徳規範っつーか、登山ルートに張られたロープのような何かで、防ぐのがベターかなーっつー。汝、姦淫するなかれ、で済むしね。
詩編にもあるように、「119:165 あなたの律法を愛する人には豊かな平和があり、つまずかせるものはありません」、踏み固められた安全ルートとしての神の道ってのも、ありっちゃありかもしれない。踏み外して、そのまま転落しちゃうよりは。

*1:不毛すぎるというか、全ての女をビッチだと証明した先に何があるのかっていうか、全ての女がそうじゃないならば、あこがれの先輩がしゃーなしに、女の性としてしゃーなしにやったんじゃなく、ただ単純に先輩がちらつかされた金に心動かすだけの女であったということに耐えられないが故に、先輩がビッチだったという事実にはショックを受けるくせに、すべての女がビッチでなければならないと証明しなければならないというアホさ加減