宗教

宗教の目的は救済にあるとする。
ある人の話。無宗教な夫が末期ガンになる。熱心なクリスチャンである妻にキリスト教の話を聞きたいと夫が言った。妻は神学部を出た息子に説明してあげてほしいと頼む。
息子が父に会いに行くと父は事情を話す。実は妻と付き合い始めた頃にクリスチャンになりたいと思って教会を回ったり、教えについて学んだりしたが、どうも違う感じがした。今、お前に説明を受けても、それは浄土真宗のようなもので絶対他力におすがりして救われるという話だろうから、それは知っている。自分は禅宗の家系で小さい頃から寺で座禅を組んだりしていた。
やはり自分にとって救いとは自力本願で行くべきだという思いがあって、他力本願とは考え方がちがう。だから妻には申し訳ないが洗礼は受けられないと伝えてくれ。そんな話。


救済は現世にあるとする。
最後の審判にしろ、輪廻転生にしろ、それはひとまず置いといて、現世における救済の話。
自力本願で行くべき救いとは何か。自力で修行を積むとポイントが溜まって、あるいは座禅中に1/65536の抽選を引くとニルヴァーナ。いずれにしろ悟ったと感じることで現世での平穏を手に入れるものとする。
そう考えるならば、阿弥陀如来にしろヤハウェにしろキリストにしろアラーにしろ、それらの教えを信じることで、来世だか現世の後に来るものだかにおける救済を信じることで、現世での平穏を手に入れることができる。
現世ではないところでの救済を信じることができるならば、現世においても救われることができる。自力の修行の末に辿り着ける境地に違う方法で至ることができる。静岡からではなく、山梨からでも富士山に登ることができる。


福音はダイナマイト。
自力本願がツルハシでカチカチの岩盤を切り開いていくところを、他力本願はダイナマイトで岩盤をまるごと吹っ飛ばす。現世以外の結果は死んでみないとわからないが、浄土だけあるかもしれないし天国だけあるかもしれないし何もないかもしれない、少なくとも現世においては同じような場所に至る。富士山の頂上にある自動販売機って高いよね。知ってる?消費税8%になったからまた値段上がったんだよ。マジで?やばいねーそれは。そんな感じ。
そこだけ聞くと非常にお得でお手軽な感じがして他力本願の方が良さそうなんだけど、ダイナマイトの爆発力は信仰の程度に比例する。たとえばへにゃりへにゃる教なんてものをいま作ったとして、それでも全然いいんだけど、それを心から信じることができるかと言ったらむずかしいように、やはり人によっては向き不向きがあるし、育ちの影響は大きい。最初の話で言えば初めに触れた禅寺の影響が大きいから、他力本願は合わなかったのかもしれない。


宗教の目的は現世における救済にあるとする。
そう考えると自力だろうが他力だろうが、本物だろうがインチキだろうが、現世での救いに辿り着ければどれでもいいと言える。あるのは向き不向きだけ。もちろん、本物感は重要なファクターだから、それっぽいエピソードやそれっぽい環境や状況によってそれっぽさポイントは異なるだろうけど。
来世なんて発想が堕落、現世のみに重点を置いて生きていこうっていうのも同列。金にしろ、国にしろ、誇りにしろ、家族にしろ、愛にしろ、夢にしろ、そういった現世的な価値観も同列。
結局人は見たいものを見て、聞きたいものを聞いて、生きたい世界を生きているのだから、せいぜい好きにしたらっつー話。どれも大して変わりはしないんだし。