満足と不足

メヒコの漁師の話。魚釣ってたらビジネスマンが来て昼に自分が食べる分だけを釣るのは効率悪いよ、夜遅くまで魚たくさん釣ってそれを売って船買おうぜ。そしてニューヨークに会社作って金儲けようぜ。何十年かかかるけど、そしたらすっげーいいことがあるんだぜ?っと言うので漁師は聞いてみた。どんなこと?メヒコで悠々自適に釣りをしてくらせるんだ。そんな絵。無理があるのはわかってる。気にしたら負けだ。

桃源郷の話。ある旅行者が桃源郷に辿り着く。飯美味いし女多いしみんないい人だし、ここは桃源郷ですねって村のばっちゃに言うとばっちゃは答える。ここは終わった人間の住まう場所だと。
本の話。一度凄い面白い本を読むと二度目からはその面白さを味わえないのが辛い。だから読んだ記憶だけを忘れて何度もあの感動を味わえたらなっと妄想していた男がいた。もし仮に不思議パワーでそれを実現できることになったとして、その男がそれを使うとどうなるか。今までは新たな感動を求めて様々な本を読んでいたけれど、不思議パワーを得たことによってわざわざ本を探すことはなくなった。だってそのパワーを使えば何度だって素晴らしい感動を味わえるんだから。



桃源郷が何故終わった人間が住まう場所かというと桃源郷であるが故にみんなそこで満足してしまうから。人は楽園を目指す。では楽園に辿り着いた後は?その先は?本の話のように満足した人間はそこに止まり続ける。終点と言ってもいい。不足がなければ満足を目指そうなんて動きは、不足を埋めようなんて動きは生まれない。現状で満ち足りているのだから。故にその先はない。だってその先があったらそれは不足ということなんだから。
メヒコの漁師の話もそのように読むこともできる。満足している漁師とそうではないビジネスマン。もし人生に100年程度の期限がなかったらビジネスマンはどうするだろうか。恐らく走り続けるだろう。何周も何周も。
あるいはこうも考えられるかもしれない。世界はシーソーであってその上に人々は暮らしてる。そしてシーソーは傾いてるわけだから高い方と低い方がある。その内高い方を皆が目指してわーわーって駆け出すといずれ重みでシーソーは逆転する。すると今まではb地点が目標とされていたのがa地点に移り変わり、過剰が不足に、不足が過剰へと変わる。そして今度はa地点を目指してわーわーって駆け出すと…って感じで無限ループ。でも確実に進んでる面はあるから、下の絵にあるようなスイッチバックだっけ?山をああやってちょっとずつ登ってくやつ。離れて見るとそのように見えるかもしれない。ははは、そんなバカなって気がしないでもないけど、例えば服の流行等を考えるとわかりやすいかもしれない。

まあ今まで散々言ってきたけど、それは逆であるかもしれない。例えば流れる水は腐らないが、留まる水は腐るという言葉のように、それらは無意味で無駄な運動ではなく、意味のある必要な運動であると。人として生物として先へ先へと進もうとする姿を良しとするのならば、満足した人間はやはり人として生物として終わった者なのであると。そういった具合に真逆に捉えることもできる。まあ資本主義社会である現状からすると不足を感じる人間の方が適してる気がしないでもないけど、そんな社会だからこそ足るを知る人間の方がいい気がしないでもない。ま、趣味の問題だわな。