体重

めっちゃ食っても体重変わらないかと思ったら、全然食べてないのに急に増えたりする。
なんでかなって考えてみたら2日くらいラグあるのかな。めっちゃ食った2日後くらいにめっちゃ増えるし。むずかしいのはあいだの過ごし方で変わること。
全然食べてない→全然食べてない→めっちゃ減る、全然食べてない→普通に食べる→やや減る、全然食べてない→めっちゃ食べる→現状維持、みたいな感じで変わるからややこしい。まあこの考え自体まゆつばだけど体感的にはそんな感じ。

オラオラ系

とまでは言わないまでも、自信があり、常に上から目線の、からかいまじりスタイルの方が人気はある。誠実()で、控えめで、常に正のストローク、相手を肯定する言動しか持たないグループと比べたら一目瞭然。
ベタな恋愛マニュアル的な話、相手をからかう方が良い、っていうのは立場の上下をどうこうとか、相手のM心をどうとか、そういった理由も少なからずあるんだろうけど、もっと単純な話、これまたくっそベタな話ではあるけれどスキナー箱的な、ボタンを押したら必ずエサが出てくるスイッチより、ボタンを押してもエサが出てきたり出てこなかったりするスイッチの方に動物はハマる、行動が強化されやすい、みたいな話なのかなとか思う。
正のストローク量で測るのならば、前者のオラオラ系よりも後者の誠実()系の方が多い。しかし、相手が受け取っているもので測るのならば、その喜びというかドーパミン量というかそこらへんで測るのならば、後者の誠実()系よりも前者のオラオラ系の方が多くを与えている。

ギャップレス現実認識

Aという想定がありBという現実がある場合、A-Bというそのギャップが苦となるので、Aという想定をやめましょう、現実のBを正しく認識すれば、想定のAからではなく現実のBからスタートすれば、現実のBと想定のAとのギャップは少なくなり、いずれB≒Aとなることでギャップはなくなり苦もまたなくなるのです、っていう考え。
この考えが完全に実現された場合、B=Aとなった場合、一体どうなるんだろう。A-Bのギャップこそがエネルギーともいえるから、Aがなければどこへ行くことができるだろう、海腹川背のルアーのようなヒットラーの復活のワイヤーのようなポイントがAでありそれに向かうように引っ張られるようにBを動かすことができるとしたら、夢や理想や目的という現実と乖離した想定のAがない場合、一体どうなってしまうんだろう。一切の運動を停止するのか、あるいは、本来的な欲望だけは残るから、腹へったとか眠いとか、最小限の活動をする形となるのか。
なんとなく。負けることも楽しむ勝負事のように、叶わないギャップも愛でるというか、愛おしむスタイルの方が、挫折と折り合いをつけるスタイル、不条理と友達になるスタイルの方が、よさそうな気がする。B=Aを目指すよりは。まあそれこそスタイルのちがいなのかな。

負けの日

無理に勝ちへ持っていくのではなく上手に負けて次へつなげるというか、ちゃんと仕切りなおせることを重視する。じゃりン子チエのおばあはんメソッド、寒いひもじいもう死にたい不幸はこの順番で来るんやからあったかくしておなかいっぱい食べることが大事、ってのもその一種だといえる。形勢不利なときに無理にリソース突っ込むことほどアホらしいこともない。リソースの無駄遣いでもあるし、炎上案件にもなりかねない。ミスったときに予防線貼りまくってあれこれ言い訳して正当化するとか。切り上げて、あったかくして、腹いっぱい食って、よく寝ること。これマジ大事、超大事。

劣化していくゴムのよう

小さい子どもを見ると肩こりとかなさそうでいいなあとか思う。自分にもあんな時期があり、今は肩の筋肉が張り、そしていずれ肩があがらなくなるのだろう。
劣化していくゴムのように、徐々に弾力が失われていくのかな。老人でもマッチョになることは可能だが、それは川の流れに逆行して泳ぐことに似ているように、弾力を保ったまま年を重ねることも同じだとしたら、体だけでなく精神も頑なになっていくとしたら、なかなか悲しい話である。
老苦の一種なのかな。ならば正しさよりも、手放し受け入れるスタイルの方がいい気もする。失われていく痴呆に任せるように、元々そんな理想だの過去だのフィクションなんだからと、今の現在こそが良くも悪くもすべてなんだからとあけっぴろげに時の流れに身をまかせスタイル。