ろりともだち

ゲイ的というか、タイトルにもあるように、ともだちって感じ。ホモソーシャルとかじゃなく、ともだち。
もしあのシーンで隣にいるのが女性や、彼らがレイプしてきたような小学生だとしたら、彼は死の間際に手をつなぐことができただろうか?多分むり。


彼らが少女に暴力を振るうのは加虐趣味というよりは暴力を用いることでしかコミュニケーションが取れないように*1、彼らは誰ともまっとうなコミュニケーションを築けない。小学生レイプしてえと叫ぶ山崎君だけじゃなく、なんとなくオタクサークルに入れなかった「僕」も。ゴミクズだから。
「僕」はロリコン趣味ではあるが、ゴミクズだとは思ってなかった。後ろめたさは持っていたが、小学生の盗撮画像やレイプ動画をたくさん持っている山崎君ほどではないと見下していた。でも行動を起こすのはいつも「僕」だった。デパートで小学生を盗撮することで自分も山崎君と同じゴミクズだと自覚し、山崎君の口癖のようなレイプ発言に「僕」が乗っかることで日本全国レイプ旅に出ることになった。そういった意味で、山崎君は本能、「僕」は理性的な持ち回りだといえる。すべては「僕」が望んだ結果である。終盤で見た夢、社会人になった「僕」と留年した山崎君とふたりで売れないロリ同人誌を作る、そんな未来もありえたわけである。「僕」が本当にそう望みさえすれば。


しかし、大事なのは、もしもその未来を選んでいたら、「僕」は誰とも手をつなぐことなんてできなかったというところ。
盗撮に失敗してゴミクズだと認識することで山崎君といっぱい遊ぶようになり、幼女に精子かけたりするいたずら等、いっぱい遊ぶようになることで、全国レイプ行脚の旅にでることになり、全国レイプ行脚で11人の少女を犠牲にして、ふたりでその罪を重ね、墜ちて、そして死ぬ間際になってさえも「僕」は誰とも繋がることができなった。
ハイになってヤケになってるだけだった。でも最後の最後に、見ているだけだった山崎君の初レイプの際に抱いた「チンコが同じくらいのサイズで良かった」という感想を、山崎君も同じように抱いていたとわかったことで「僕」は誰かの手を握ることができた。本当に「僕」と同じくらいの、ゴミクズの手を。
手をつないだ彼らは練炭くさい車の中、レイプした少女のへたくそな絵が書かれた車の天井を眺めながら、語り合う。会えてよかった。もしも会えなかったらどんな人生だったろう?ふたりとも意外と普通の人生を送ってただろうね。でも、ふたりだからできたこと(女児レイプ)だろ?と笑顔で尋ねる山崎君に、「僕」はうんと答える。泣きながら。笑いながら。
そして、こんな気持ち僕らにしかわからないよねぇ、と終わる。


さて、もしこの話が現代文の試験に出たとして、「この作品はどのような作品か答えなさい」とか「僕らにしかわからないこんな気持ちとはいったいどんな気持ちなのか答えなさい」とかいう問題がでたら、どのように答えればいいだろうか。
自分ならこう答える。「11人の少女をレイプする経験を共に重ねることで初めて誰かの手を握ることができるゴミクズの物語」であり、「そのゴミクズが、お互いに手を握り会えるゴミクズと出会えたことで、どえらい犯罪を重ね、死の間際ではあるが、もしも彼に出会えなかった人生と、せいぜい超つまらないことで捕まるくらい普通だけど誰とも本当の意味で手を握ることができないだろう人生と比べて、こんなにどえらいことをしでかし、11人の少女の人生をめちゃくちゃにし、もうすぐ死ぬような人生ではあるんだけれども、隣で寝ているゴミクズと握り合う手に、汗でギトギトになったその手に、本当にゴミクズではあるんだけど、充足感を得た、満ち足りた気持ち」であると。

だからどっちかーてーと、一時期流行った非モテ的な話。そんだけのことをしでかさないと誰かとろくに手も握ることのできない、非コミュの話。そして読んでる「僕ら」はつまらない人生を送る。レイプなんかせず、少女をレイプするマンガを読み、そしてそんな「僕ら」が誰かと手を握る物語を読むことで、慰める。収める。自慰することでやり過ごす。「僕ら」の姿はひどく醜い。誰かとつなぐ手は退化して、先鋭化した刺激を摂取し続けることで、ちんこだけが発達した、そんな異形。そんな異形だからこそ、誰かと手をつなぐためだけに、こんないびつな物語が必要になる。肥大したちんこを満足させるために11人の少女を犯し、自分と同じくらいの醜い異形の、ちっちゃなちっちゃなギトギトの手を握る物語が。

*1:中学生は暴力が通用しない可能性があるから犯さない